「肉体は朽ちるが、魂は生き続ける」 Topics

祈り
 土佐日記に、次のような一節があります。

「なかりしもありつつ帰る人の子を、ありしもなくて来るが悲しさ」

 死別の悲しみは、現世限りだと思うと底知れぬ深いものとなってしまいます。特に自分の子どもを亡くした親の悲しみは喪失感にとどまらず、ともすれば子どもの夭逝の原因を自分に帰し、自らをひどく責め生き続ける意欲さえなくしてしまいます。はては家族の間にひびが入り、時には離散にいたることもあります。

 けれども、人の魂は肉体が消滅した後も存在すると考えれば、ずいぶんと心が安らかになるのではないでしょうか。現世で二度と会うことはできないという喪失感は、残されて現世を生きるものにとって確かに大きいものですが、大切な人と霊明の境を異するのは一時のこと、他界した人はどこかで自分を見守ってくれている、いつの日か再会できると考えれば、死別の悲しみの本質が変わってくるのではないでしょうか。

 また、様々な事情により、大切な人への弔いの形がとれなくて心を痛めている方がいるかもしれませんが、心配にはおよびません。葬儀、あるいは墓は、それ自体に意味があるわけではないからです。亡骸や骨に霊が宿っているわけではないのです。釈迦やキリストも、そのようなことには全く関心を持っていませんでした。

 ただ、葬儀を執り行ったり墓参りをするという行為には、現世を生きる者にとって別の意味があります。葬儀は亡くなった人との今生での別れを意識するけじめであり、墓参りは日々の俗事に追われる我々に霊に思いをはせるひとときを与えてくれると同時に、内省の時間をも与えてくれるのです。したがって、葬儀や墓参りは、人それぞれの環境に応じて、できる範囲で行えばいいのではないかと私は思うのです。

(巻末)

 人の一生は一瞬の夢にも似た儚く短いものです。だからこそ、人は現世に執着するのかもしれません。愛する人の死を悼み、自分の死を怖れる。その気持ちはよくわかります。しかし摂理、霊魂の永遠に思いを重ねつつ、今に没頭すれば、肉体の死を恐れることなく勇気をもって生きることができるのではないかと私は思います。

 人は、今生を生きているうちは、生きることを懸命に考えなければなりません。なぜなら、我々は摂理によって作られた自然の一部であり、摂理によって生かされているからです。あらゆる思索、創造する力、精神活動は、いうまでもなく体の状態と不可分です。第2章で登場したBさんの言葉にもあるように、「人は自分に与えられた体を受け入れ、その声を聴き、精一杯生かすことで、感謝の気持ちをもって生きていかれる」、これは真理だと思います。

 人はみな理性と直観のバランスをとり、自分が生かされていることを謙虚に自覚し、良心に耳を傾け、足るを知り、心身を労り、利他行をし、今を一生懸命に生きられたらと私は思っています。そして、「死」を冷静に見つめ穏やかな気持ちでそれを迎え、「生」を全うしたいものです。寿命が来れば肉体は朽ちる、という意味で「人は死ぬ」が、霊魂は生き続ける、という意味で「人は死なない」。私は、そのように考えています。

(「人は死なない ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索」矢作直樹 2011.9.1初版 バジリコより引用)

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