目で見るのではなく、脳を見ている「私」 Topics

なぜ「赤いリンゴ」と分かるのか?

 赤いリンゴを見る時、私たちは、見た瞬間に「赤いリンゴだ」と、感じるような気がする。しかし、実は、リンゴの特徴は、色、形、動き、陰影、質感といった因子に細かく分けて別々に処理されたあとで統合されている。これは脳内の「知」が行う知覚情報処理だ。

 確かに、目はカメラであってコンピュータではない。だから、目で見た瞬間に、「赤い」とか「リンゴだ」とかといった特徴がわかるわけがない。一度、コンピュータである脳に情報が運ばれて、そこで「赤い」とか「リンゴだ」とかいった特徴が計算されてやっと、特徴が特徴として認識されるのだ。

 そう言われてみればそんなものかな、とは思うものの、やっぱり、実体験としては、私たちは目で見た瞬間に「赤いリンゴだ」と感じているように思える。ではなぜそのように感じるのだろうか。

私たちは「赤いリンゴ」という情報を見ている

 リンゴなのか、赤いのか、などの特徴が抽出されていない生の画像に、大脳で計算して求めた「赤いおいしそうなリンゴ」という情報を巧妙に重ね合わせ、「私」(意識)に対して表示しているようなものだ。

 つまり、私たちが、「赤いリンゴを見た」ことを「意識」するとき、実は、私たちは、素の画像だけを見ているのではなく、脳で加工された結果作り出され、画像に合わせて表示された、生き生きした「赤いリンゴ」のクオリアを同時に感じているというわけだ。

 私たちは、「赤いリンゴ」を目で見ているわけではない。視覚受容器が検出しているのは、何の意味も持たない画像。「赤いリンゴ」は、脳で作られた情報なのだ。「私」は、目で見るのではなく、脳を見ている、というべきなのだ。

五感を感じるときは、感覚器で感じているのではない

 視覚よりも触覚の例のほうが単純でわかりやすい。私たちは指先で何かに触ったとき、熱いか冷たいか、つるつるかざらざらかを、瞬時に、しかも指先で感じるような気がする。しかし、皮膚にはマイスナー小体やメルケル小体といった触覚のセンサがあるだけで、脳はない。

 だから、当然、熱いとか冷たいとかつるつるかざらざらかといった情報を皮膚で計算することは決してできない。それは、触っているという生の行為に、触った結果としての感触のクオリアを重ね合わせて「私」に対して表示しているからに他ならない。

 味覚も同じだ。舌の先には脳はないから、食べた瞬間に甘いとか辛いとか感じられるはずはない。甘い辛いといった特徴のクオリアは、やはり脳で計算された後に、食べるためのあごの動きや食べ物の動きに重ね合わせて「私」に対して表示されたのだ。

私たちが五感を感じるとき、それは感覚器で感じているのではない。

(「脳はなぜ心を作ったのか 「私」の謎を解く受動意識仮説」 前野隆司 2010.11.10 筑摩書房より編集引用)